1.岡山平野の特性

岡山の南部一帯は、かつては瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と本土の間に20余の島々を点在させた美しい海で、「吉備の穴海」と呼ばれました。これらの島々は潮流が緩やかであったことから、三大河川から流出した土砂が堆積して干潟が発達しやすく、干拓に恵まれた条件を有していました。
加えて、昔から砂鉄採取の鉄穴(カンナ)流しや、タタラ製鉄、備前焼、製塩のための薪炭林として森林が伐採されたことや、雨が少なく山火事が多かったことから山が荒れ、中国山地からの土砂流失が進み、一層干潟が発達する結果となりました。

2.干拓の始まり

河口の低湿地地帯を排水改良して農地を開拓する小規模な干拓は、奈良時代(8世紀)頃から行われていましたが、源平の藤戸合戦(1184年)当時、児島はまだ離れた島で浅瀬の渡しがありました。

3.大規模な干拓の始まり

戦国時代から江戸前期にかけ、戦国武将や藩の指導のもと国力増強のために組織的、計画的に新田開発が行われるようになり、干拓も大規模に行われるようになりました。秀吉の備中高松城水攻め(1582年)の堤防造り技術がヒントとなったと言われており、児島は、このころ(1618年)陸続きとなり児島半島となりました。

4.江戸時代の新田開発

その後児島湾周辺地域では西の方から盛んに新田開発が行われ、江戸中期に備前・備中の国境論争により一時停滞しましたが、寛永年間より慶応に至る約240年間において約6,800haもの土地が造成されました。




5.明治以降の干拓の歴史

明治以降の干拓の歴史は、廃藩置県に伴い家禄を奉還した旧藩士たちの授産事業として干拓が試みられたことが契機となり、大阪の豪商、藤田伝三郎によって着工されました。湾内約7,000haのうち、約5,500haを8工区に分けて順次着工し、昭和16年までに第一〜第五区まで、約2,900haの水田が造成されました。
さらに、昭和14年に着工した第六区(約920ha)と、昭和19年農地開発営団によって着工された第七区(約1,650ha)は、戦後復興と食糧増産対策として農林省に引き継がれ、昭和38年までに順次完成して現在に至っています。